「八甲田山死の彷徨」に学ぶ①(2022年_7月号)

 

 

新田次郎著の『八甲田山死の彷徨』は、日露戦争を直前にして厳寒の八甲田山で 199名の死者を出した雪中行軍遭難事故を題材にした小説だが、 第 1級のビジネス教材とされ、組織とリーダーシップのあり方、プロジェクトの進め方、リスクマネジメント等現代のビジネス現場にも通じる身近な 課題がふんだんに含まれている。その中からケーススタディとしていくつかのテーマを取り上げたいが課題が数多くあり数回に亘って考察していきたいと思う。

第 1回目のテーマは「目的の捉え方」であるが、テーマを検討する前に、事件の全容を要約しておこう。最初の舞台は第 4旅団司令部の会議室だ。 参列者は組織図(下図)の8名、中林参謀長が説明を始める。「日本とロシアの開戦はもはや時間の問題であり、軍は開戦に備え寒地装備、寒地訓練を緊急の課題としている。同時に万一のための交通路の確保を目的として八甲田山を踏破し、その真実の姿を提示してほしい。しかし、これは師団の命令ではなく、私の希望である。如何なる犠牲を払っても踏破せよというのではない。寒さとは如何なるものか、雪とは何物なのか、その真実の姿を、提示して貰えばいい。」と言葉を切った後、第4旅団長(友田少将)が各連隊長を飛び越し第 5連隊の中隊長神田大尉と第 31連隊の中隊長徳島大尉に「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないかな」と質問する。二人は同時に「はっ、歩いてみたいと思います」と答えた。

結果として、徳島大尉が率いる第31 連隊は1 個小隊37 名、十和田湖を迂回して八甲田山に向かう11日間240キロの行程、全工程を踏破し全員生還。 一方、神田大尉が率いる第5 連隊は1個中隊210名、徳島隊とは逆のコースを進み、第1 日目に早くも猛吹雪に阻まれ、方向を見失う。寒さと雪に苦しみながら数日間さ迷い続け、ついに神田大尉以下199 名が凍死。
世界に類を見ない山岳遭難事故となる。
この小説は失敗がテーマなのだが、神田隊と徳島隊が行った雪中行軍の概要は下記の通りだ。

 

なぜ神田隊は中隊規模の陣容を組み、有事即応の演習となってしまったのだろうか。

神田大尉は当時としては珍しい平民出身の将校だった。その為か彼は「独断専行せず、権限を外れることは必ず上官の指示を仰いでいた」一方、上官の山田少佐は「部下に任せっきりにせず、こまめにコミット」しており、信頼関係に結ばれた理想的な上下関係にも見える。
神田大尉は徳島大尉を訪問、情報を収集して山田少佐に報告。山田少佐からは「徳島隊に引きずられることなく、独自の計画を立てるよう」諭される。その後、八甲田山麓の村に出掛け、村人に雪山の実体を聞き、案内人がいるか確認、翌月には好天のなか小峠まで演習行軍を行う。その報告を山田少佐に報告。山田少佐からは「中隊を編成し、大体本部が随行する計画を作成せよ」と指示をうける。

今回のテーマは神田大尉、徳島大尉が中林参謀長の指示をどう捉えたかがポイントとなる。プロジェクトを進めるときにまず確認しておかなければならないのは「達成水準」、すなわちどのレベルの成果が求められているのかである。月差1 秒の時計を作るのと、年差1秒の時計を作るのでは、 材料、製造工程、コスト、技術力が全く異なってくる。
中林参謀長は「如何なる犠牲を払っても踏破せよというのではなく、その可能性を試せばよい」と補足している。真の目的は「まずは、体験してみろ」というレベルの要求だったのだ。また、「これは命令ではない」と断っているのは、万が一問 題が起きても責任は取らないという意思表示だったのだろう。

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