台   湾(2024年_7月号)

あさひ会計では今年の秋、社員旅行で台湾にいく。これを機に台湾について学んでみた。

1895 年中国は日清戦争の敗北により台湾島を日本に明け渡した。1945 年日本が第 2 次大戦に敗れると台湾島は再び中国のものになった。しかし、中国大陸では蒋介石が率いる国民党と毛沢東が率いる中国共産党との間で内戦が勃発しており、1949 年中国共産党が北京を支配下に置くと蒋介石は台湾島に逃れその後台湾を統治した。

以来、中国共産党が樹立した「中華人民共和国」と国民党が主導する「中華民国」とは台湾海峡を挟んで対峙することとなる。1971 年になると国連に加盟する「中国」は中華民国から中華人民共和国に入れ替わり、台湾は国連代表の座を失う。中国は、台湾は中国の一部だとする「一つの中国」の主張を認めた国としか国交を持たないため、日米を含む各国は中国(中華人民共和国)と国交を結ぶと同時に台湾(中華民国)と断交、台湾はオリンピックでも国としてではなく「地域」として参加することとなってしまう。

日米が「一つの中国」を認めたのは、中国も経済が発展すれば民主化するだろうとの期待があったからだと言われているが、期待に反し中国共産党は一党独裁を強め、2020 年には香港の「一国二制度」の約束を破り自由と民主主義を奪っている。さらに「中台統一」は中国共産党の悲願であり、台湾独立に対しては「武力の使用を放棄しない」と強硬な姿勢を貫いている。

一方、台湾は蒋介石、蒋経国(蒋介石の長男)による国民党の独裁政治が続いていたが、1996年 李登輝のもと総統(国家元首)の直接選挙が初めて行われ、台湾の独自性を守ろうと現状維持を訴える民進党と、中国との関係を改善して経済を活性化しようとする国民党との間で政権交代が行われるなど自由と民主主義が定着している。台湾人の本音は「独立」かもしれないが、中国の武力侵攻を招く恐れがあり、現実的な選択として現状維持派が多いのが現状だ。

さて、蒋介石の功績についても述べておきたい。1931 年に軍部の独走から端を発した満州事変は 1937 年には日華事変を引き起こし、中国人民に対して多大な被害をもたらしたのだが、日本の南進を懸念したアメリカ、イギリス等の連合国の圧力に耐えかねた日本は 1940 年真珠湾奇襲により太平洋戦争の火ぶたを切った。日本は次々と西南太平洋を制圧していったのだが、1942 年ミッドウェイ海戦惨敗、ガタルカナル島の完全放棄、1943 年山本五十六元帥死去、北方アッツ島全滅と戦況は日々悪化の一途だった。
連合国側は日本の敗戦はもはや “決定的” なことと考え、日本が無条件降伏する 2 年半以上も前1943 年エジプトのカイロで初の連合国首脳会談が開かれた。ルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石総統によるこの会議で問題とされたのは➀天皇制の存続問題、➁日本に対する軍事占領の方法、➂中華民国の日本に対する賠償要求の 3 つだった。

なかでも最も処理しにくいのは天皇制存続問題だった。アメリカでは日本軍人は天皇と直結しており、天皇制を打倒することによって日本人を再び戦争に駆り出すことの無いようにするというのが 1 つの方針だった。これに対して蒋介石は東洋の倫理、道徳、文化から天皇制廃止に非を唱え「敗戦後の日本の政体は日本人の意志に任すべき」と主張したのだった。領土問題では満州、台湾等を中国に返還することを決定。「沖縄を中国が占領する意向があるか」を問われた蒋介石は「米中で共同管理するのが良い」と答えたという。
また、賠償については「一部は日本の工業機械、船舶、車両等で物納すべき」と述べたが、後になって蒋介石は賠償要求を完全に放棄したのだった。蒋介石には東洋哲学に基づく道義感から「将来の東洋の平和のために日本を再起不能にしてはならない」という思いがあったという。

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