『梨泰院クラス』を観ながら感じたこと(2022年_9月号)

 

数年前、文芸春秋に当時評判の韓国テレビドラマ『愛の不時着』の書評が載っていたので何気なくNetflix を覗いて全16 話にはまってしまった。最近また、韓国の人気テレビドラマ『梨泰院クラス』が日本で『六本木クラス』としてリメイクされたというので、オリジナル版をNetflix で観出したら面白くて止まらず、10時間ぶっ続けで観ても終わらず、娘に「いい加減にしたら」と注意されしぶしぶ中断したのだが、次の休日に続きを7時間程かけてやっと観終わった。

正直、韓国には好意を持っていないのだが、韓国ドラマは面白い。何故、面白いのだろうか?ひとつには登場人物が本音をぶつけ合うところに爽快さを感じるのかもしれない。老いも若きも、美しい人も、そうでない人も、言葉だけでなく、表情も、態度も激しく本音をぶつけ合う。普段本音を押し隠し、忖度しあう日本人としてはそこがスカッとするのだろう。
だいぶ昔に読んだ本だが、韓国人で日本に帰化した呉善花(オ・ソンファ)教授の著『日本の曖昧力』には、日本人の精神性や日本文化の基調となっている「曖昧さ」を積極的に評価する論調が掲げられている。しかしそれが昨今では、日本人の民族的な「曖昧さ」、つまり、責任をはっきりさせないとか、いい加減とか、自己主張がないといった風潮が、否が応でも国際化し世界の情報が様々なメディアを通して日常的に入り込む現況において、日本人にとってももどかしく感じ始められており、韓国ドラマの本音の世界が日本人のストレスを解消しているのかもしれない。

とはいえ、日本人の曖昧文化を否定しているわけではない。呉善花教授によれば、日本人が日常的に使用している日本語では「受け身」(受動態)が多用されており、これが自分の主張を前面に押し出す諸外国の人々に対して、日本人が他人の立場で物事を考えられる国民性の素地になっているというのである。

「泥棒に入られた」「女房に逃げられた」といった表現は外国には無いのだそうだ。そもそも「入る」「逃げる」という言葉は自動詞で、他人に働きかける動詞ではなく、外国語では受け身の表現が作れないらしい。あるいは受け身の表現があっても日本ほど多用しない。ところが日本では「叱る」「押す」「蹴る」といった他の者に働きかける動作すら、受ける側を主役とする「叱られる」「押される」「蹴られる」といった受け身の表現が日常的に使われている。

例えば「泥棒に入られた」という表現には、「戸締りをキチンとしなかった」といった反省的なニュアンスがあるが、同じ表現をするのに韓国語では「泥棒が入った」、「自分の管理が甘かった」と二つの表現をする必要があるというのだ。

呉善花教授は、受動態の表現そのものに自分の行為を省みようとする気持ちがあり、自責の念すら感じられるという。この受動態による表現が代表する日本的な文化こそが、対立を克服し調和と融和をめざす国際社会にとって今後ますます必要になるのだと教授は主張するのである。

ドラマ『梨泰院クラス』には大事な仲間たちや人のぬくもり、家族的な経営も描かれているが、貫かれているテーマは復讐だ。「恨(ハン)の国、韓国」といわれるが、ドラマの最終場面は信念を貫いて会社を首になり、事故死した父親のかつての雇い主に土下座をさせる場面だった。

杉本竜一作詞作曲の「ビリーブ」という曲に“ 世界中の希望のせて、この地球はまわってる”とか“ 世界中のやさしさで、この地球をつつみたい” という歌詞が入っている。主張に具体性はなく曖昧そのものだが、この人類の普遍性こそ日本文化の根源そのものだ。韓国ドラマでストレスを解消させ、日本の曖昧さにイライラしながらも、やはり日本に生まれて良かったとつくづく思うのである。

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