トヨタの戦略(2022年_12月号)

 

神戸大学大学院教授三品和広氏の講演を聞いた。
日本は低成長から離脱する切っ掛けがつかめず、企業に金が貯まる一方だ。それに対して学者は会社に入り込めず、深いところにある病巣にメスを入れることが出来ていない。そこで三品教授は➀10 年間利益率10%超の事業、➁占有率1 位を継続している企業、➂1965 ~2014 年の50 年間、年次成長率5%超の会社を抽出したところ、これら3つの条件をクリアした会社が100 社超あり、日本も見捨てたもんじゃないことを知ったという。

その中でもトヨタはずば抜けていた。講演ではトヨタの戦略を日産との比較から明らかにしている。1965年(東京オリンピック)から1981 年までのトヨタと日産の売上高はほぼ拮抗しており、トヨタのコロナ、日産のブルーバードとのデッドヒートが続いていた。ここまでは企業成長というよりは自動車産業そのものの成長といえる。1982年以降トヨタと日産の売上高は大きく差が付くことになり、日産(年次成長率4.5%)はトヨタ(年次成長率6%)の背中が見えなくなる。

それまで売上を順調に伸ばしていた日本の自動車メーカーは、1980 年代に入り日米貿易摩擦により日本車の輸入規制が実施され、関税が4%から25%へ拡大される。全米自動車労組は「日本は自動車を輸出するのではなく“失業”を輸出している」として公聴会を要求。それに応じて石原俊日産社長は米国での現地生産を表明、フォルクスワーゲンとの提携、英国に工場建設など積極的な国際戦略を推進することになる。
日産は「銀座に本社があるだけあってあか抜けている。石原社長は国際人の鏡」ともてはやされるのだが、トヨタは「三河のヤマザルは動きが遅い。何も分かっていない」と揶揄されることとなる。
トヨタは1984 年GM と合弁で現地生産を開始。日産に遅れること5 年、1987 年 に漸く100%出資で自前の工場を作ることになる。

何故トヨタは日米貿易摩擦の後すぐに現地生産を行わなかったのであろうか?日本車の小型ピックアップトラックは米国中西部の田舎で多用途、廉価、長持ちすると人気だった。さらにカリフォルニアの若者たちがオフローダーに改造し乗用車化していたという。トヨタは小型ピックアップトラックを臨海部に位置する田原工場から輸出していたのだが、米国での現地生産に移行した場合国内工場をどうするか、余剰となる人員をどうするのか準備が出来ていなかったのだ。そこで25%の関税を受けながら田原工場から輸出を続けることになるのだが、ピックアップトラックの荷台に屋根を付け(SUV の元祖)付加価値を高めて出荷した。
現在、田原工場の3 つの工場ではハイラックスと、レクサスを生産しているという。

日米貿易摩擦が沈静化し、日本の自動車産業の成長も止まったころ、米国の自動車市場はホンダのシビックとアコードが溢れていたという。トヨタは仮想敵企業を日産から本田へとシフトし、2000年に米国市場においてプリウスでホンダを追い抜くことになる。その後仮想敵企業をGM にチェンジし、世界市場に進出することを決定したものの、GM はリーマンショックで半分国有化になってしまう。現在の仮想敵企業はフォルクスワーゲンだ。フォルクスワーゲンはゴルフ、アウディ、ポルシェ、ベントレーとバリエーションが豊かで中国では公用車に使用され国民車となっている。主戦場は中国だ。

三品教授は企業の成長は毎日毎日連続するのではなく、階段を上るようにギアチェンジが必要だという。飛躍的なステージアップが必要であり、改善改善では歯が立たないのだ。何が世界を動かしているのか?明と暗を分ける分岐点は何か?小手先で成長など出来ないというのである。
トヨタはEV への取組みが遅いという批判があるが三品教授は心配していない。トヨタは考えている。トヨタの強みは後だしジャンケンだという。

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