原点に戻る(2023年_2月号)

久しぶりに米沢興譲教会を訪れた。田中信生牧師の話は哲学的で難しいのだが、一筋の光を感じる。仏教は「無」から始まるのだが、キリスト教は「有」から始まるのだという。どこに居
ようと、どんな過去があろうと、どのような未来が待っていようとも、「そこに存在する」それがすべてだという。そこに有るだけでいい、生かされている、それだけで良い。「有る」に徹す
ることは、命の中心を生きること、上へ上へではなく中心を目指して中心を生きること。現代人は命の中心を忘れ、その結果人生をグシャグシャにしているのだという。

田中先生は、料理界のカリスマといわれた「オテル・ドゥ・ミクニ」の三國清三氏の話を始める。駐日フランス大使に「三國が作るフレンチこそ本物」と言わしめた三國氏は、各国の著名人を含む30万人のお客様に支持されて37 年間続いたお店を、昨年末スッパリと閉じた。
三國氏は北海道の日本海に面した増毛の育ち。父は漁師で父が繰り出す手漕ぎ船に乗って小学生の頃から漁を手伝っていた。漁が忙しい時期に学校に顔を出すと、先生から「父さんの手伝いしなくて大丈夫か」と心配されたという。中学校では就職する子が2 人しかいなかった。母からは「志はみんな平等なんだからね」と、父からは「大波が来たら真正面からぶつかってけ」と就職先の札幌に送り出された。

三國氏の料理人としてのスタートは札幌グランドホテルの社員食堂のパートからだ。そのホテルで、東京の帝国ホテルには村上信夫という「料理人の神様」がいると教えられる。神様がいるなら何としても会ってみたい。「俺は神様の弟子になる。」三國氏は18 歳の春に青函連絡船で津軽海峡を渡ることになる。
当時の帝国ホテルにはパートから社員に登用される道があった。三國氏は帝国ホテルの洗い場のパートになる。しかし、パートから社員になる制度が三國氏の順番の直前で終了となる。中卒の三國氏には帝国ホテルの社員になる方法がなくなってしまった。20 歳にして初めての挫折だった。

増毛に帰ろう、親父のように漁師をやろう。12月に辞めることにして、それまでの数ヶ月間帝国ホテルにあるすべての鍋を磨くことにした。とにかく爪痕を残したかった。3 ヶ月が過ぎたころ村上総料理長から呼び出された。「三國君、ジュネーブに行きなさい。大使の調理人に推薦しました。」
ジュネーブ大使の料理人を勤めた後、三國氏はフランスで何人もの三つ星レストランのシェフの下で修業し、日本に帰り「オテル・ドゥ・ミクニ」を開くことになる。さらに数年後には世界中の高級ホテルでミクニ・フェスティバルが開かれ、ロンドンではエリザベス女王も来られたという。

ところが日本に上陸したミシュランガイドには「オテル・ドゥ・ミクニ」の名に三つ星どころか一つ星も付いていなかったのである。これにはフランスの著名なシェフ達からも、フランス大使館からも抗議が相次いだ。三國氏は言う「ミシュランを否定することは、自分を否定するのと同じだ。ずっとこの星を目指して生きてきたのだ。星を取れなかったことは自分の人生に大きな意味を持っている。」
「ぼくには一人憧れのシェフがいる。彼の料理は文字通り世界一だ。ぼくは彼に負い目を感じている。その人のように無心で料理に取り組んで来られなかった。」「3年後ぼくは70歳になる。その時ぼくの新しい店“三國” を開店させる。席はカウンターのみで8席、料理はぼく一人で作る。遅くなりました。フランス料理を始めます。」

田中先生は「中心にあるものは永遠の命、それを取り戻しなさい。“有る” に徹することにより、あなたならではの音色になる。」という。そして三國氏の憧れの人とは、三國氏の中心にある命、原点であり、三國氏そのひとだと明かすのだった。

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