入場券販売受付に年配の女性、近所の暇つぶし中の女性の2人がトウモロコシを頬張っている。国宝の大塔※1があるが観光客は他に母娘1組だけ、のんびりした観光地となっている。
潮風感じる和歌山城を中心とした和歌山市内から車で東に30分、ゆるやかな山間に根来寺がある。現在、根来寺周辺はのどかな田舎町であるが、戦国時代には傭兵集団として名をはせた根来衆の拠点であった。
1140年に根来にて覚鑁上人(かくばんしょうにん)が開創して以降、荘園の寄贈を受け、寺領の増加とともに、防衛のため僧兵を増やしてきた経緯があるという。戦国時代、日本に滞在していたルイス・フロイス宣教師の記録の中に、根来について「紀伊の国の4つ、5つの宗教集団のうち、第3番目の集団根来衆は(中略)日本諸国の武将、諸侯が交戦する際に、傭兵として雇われている」とある。また、鉄砲の鍛錬を日々行い、習熟していると記録されている。当時、根来には2千、3千もの寺院※2と1万人の僧兵がいたとされている。
鉄砲は種子島に偶然漂着したポルトガル船で日本にもたらされたが、種子島当主の子、時尭(ときたか)が船に搭載されていた鉄砲2挺を購入した。そのうちの1挺を、なぜか根来の杉ノ坊※3が持ち帰っている。有力武将ではなく、また種子島から遠い紀伊の国の山間の杉ノ坊が、鉄砲をもらいに種子島を訪問し持ち帰ったことに不思議さを感じる。
貿易が盛んな堺は峠を越えてすぐであり、敏感に情報を得ていたのであろうか。杉ノ坊は、堺の鍛冶屋にこれを量産化するよう依頼。その後、堺は鉄砲の一大製造拠点となる。
根来衆は、その後鉄砲専門の傭兵集団となり、根来衆がついた方が勝利すると言われた。味方についてくれと全国の武将から高額で誘いがきたという。専門集団の極みであろう。
※1 1547年(天文16年)に建立された日本最大の木造多宝塔。1585年(天正13年)主力部隊が留守中、秀吉軍の進攻により焼き討ちにあったが、大塔は焼失を免れた。現在も梁などに銃弾のあとが残っている。
※2 現在は11の建物、門で構成されている。根来寺周辺は、石垣の段々畑が多いが、発掘調査で、これらがすべて寺の跡地であることがわかっている。
※3 根来寺の中の有力な院主の一人。