布川(ふかわ)事件という冤罪事件をご存知だろうか?昭和42年8月30日の朝、茨城県の布川という場所で一人暮らしの老人が自宅で殺され、室内が荒らされているのが発見された。捜査が行き詰まってしまったあげくに1ヵ月後2人の青年が別件逮捕された。2人は、それぞれ警察の取調べで「自白」を強要され、物的証拠が何一つ無いにもかかわらず「自白調書」のみで強盗殺人の容疑で起訴され、無期懲役が言い渡された。これが冤罪布川事件の始まりだ。
公判で二人は「自白」は刑事に強要されたものであるとして全面否認したが、昭和53年最高裁で無期懲役が確定して29年間のあいだ刑務所に囚われた末に漸く平成8年仮釈放となった。二人は仮釈放後も無実を訴え平成21年最高裁で再審開始が決定した。その後地裁で計7回の公判が開かれ平成23年無罪の判決が言い渡された。逮捕されてから結審(無罪)までにかかった期間は実に44年間であり、これは戦後の事件の中で最長である。
二人は何故身に覚えの無いことを「自白」してしまったのだろうか。誰しも40日以上前(事件当日)のことなどほとんど覚えていない。又、どんなアリバイを言っても否定されて本当かどうか調べもしないし、「認めなければ死刑になる」といわれ、「何もしていないのだから裁判になればわかってくれるはずだ。」という思いが自白につながったという。裁判というのは神聖なもので真実をわかってくれると信じ切っていたのだ。しかし、裁判所でも最初から予断を持って犯人扱いされ、裁判は検察官の筋書きどおりに進行したという。
私事になるが、布川事件の弁護団長は私の叔父柴田五郎だった。一審で有罪とされた被告人が、このままではだめだと二審から弁護士を叔父に変えたのだ。叔父は先月82歳で亡くなったが50数年間の弁護士生活のうち44年間の布川事件は文字通りライフワークだったといえる。最高裁で無期懲役を言い渡されたとき、本人達は「真夏なのに寒気がした」「これで人生は終わった」と言っていたという。叔父も精も根も金も尽き果て弁護士の看板をたたんで田舎に帰り百姓でもやろうかと考えたのだが、自分も無期懲役になったつもりで再審に付き合うことにしたという。
叔父は、西村山郡宮宿の出身で7人兄弟の末っ子だった。山形東高校夜間部を経て中央大学の第二法学部に入り、就職も決まっていたのだが、「一度でも本気になって勉強したことがあるのか。」という天の声が聞こえ、あの司法試験とやらを受けてみようと思ったのだという。半年間タクシーの運転手をやって金をため、残りの半年間勉強をするという生活を何年か続け司法試験に合格をした。充実した人生だったと思う。冥福を祈りたい。