恩師山桝忠恕先生が62歳で亡くなられて35年が経つ。
先日、山桝ゼミのOB会が100名を超える参加者を集め開催された。ゼミが消滅してからも、長きにわたって多数の卒ゼミ生が集まりOB会が開催されることは慶應義塾大学としても類を見ないということで昨年のOB会には塾長が見えられ挨拶をされた。
山桝先生は神戸大学出身の慶応大学教授で、慶応大学としては異色の先生だった。私がゼミ生になったころ山桝先生は45歳、気鋭の会計学者として公認会計士試験の試験委員や大蔵省企業会計審議会委員の要職を務められていたが、入ゼミの説明会で山桝先生は「公認会計士の試験を受ける人はゼミに入らないでいただきたい。」とおっしゃられた。ゼミは真理追及の場であり予備校ではないのだからというのだ。
ゼミでは4つのグループに分けられ、1つの設問に4つの答えが用意されてそれを各グループに割り振り、与えられた答えに従って議論を繰り広げるのだが、議論の際、あるグループが「企業会計原則第何条にこう書いてあり、だから答えはこうだ。」と述べたところ山桝先生の雷が落ちた。真理とは何かを問い、自らの思索を通じてそれを会得しようとする時、企業会計原則も批判の対象であり、“本来はどうあるはずなのだ”という立場で議論するのが肝要なのだと、それが教養なのだと。
夏のゼミ合宿では2日間の徹夜が恒例だった。「2日間徹夜したからといって君たちの学業が上がるとは思っていません。しかし、社会に出れば2日間徹夜してでもやらなければならないことに必ず遭遇します。学生時代の2日間の徹夜はその時のトレーニングです。」とおっしゃるのだ。
ゼミでは時に読書会もおこなわれた。山桝先生は山本周五郎が好きで、私がゼミ生の時に取り上げられた本は『さぶ』だった。それをきっかけに私も山本周五郎の本をすべて読破した。
しかし、山桝先生は、学者としても、教育者としても最も脂ののった時期に癌に侵されてしまう。すぐにでも入院しなければならなかったのだが、その時は税理士試験の試験委員をしており、しかも秋口には学会の座長を頼まれていた。事情を伏して学会の座長の交代をお願いしたのだが、“余人をもって代えがたい”と断られてしまう。山桝先生は“この機に及んで無様な姿を見せては出来の悪い教え子たちに申し開きが出来ない”と何千人分の税理士試験の採点をすべて自分で終わらせ、学会の座長を務め、学会の会場から救急車で病院に運ばれてしまう。
読売新聞の“日本の人脈”というコラムの「教育」シリーズ最終回に山桝忠恕先生が取り上げられている。これが“教育者”だと。